第133回 ■女はみんな優等生?■

中山千夏(在日伊豆半島人)

がらっと話は変わるけど、どうしてもここで言っておきたくて。
最近「進歩」を実感したのでね。

大手商社の中堅幹部たちと雑談する機会があった。その時、彼らからこんなことを聞いた。

「最近、入社試験の成績だけで採用すると、8割がたは女性になってしまう。どこの会社でも、今それが問題になっている。そして、入社後十年くらいまでは、女性社員のほうが能力が高い」

カイシャ事情にはうといので、私はただただびっくりした。
ちなみに、この話をしてくれた中堅幹部は全員、男。とても正直そうな男たち。私より下の世代だから、イヤ味なく女性の能力を評価しながら、しかし、困り果て戸惑っている感じだったよ。

80年代だったかな、「積極的差別」という言葉を知ったのは。ヨーロッパのひとたちが考え出して、今でもやってるとこあるんじゃないの。女性の社会参加をうながすために、社員なら社員の何パーセントかは女性にする、という法律を作る。性で差別する方策には違いないけれども、男女平等な社会参加という理想に向けてのことだから、ポジティブな差別、積極的な差別ってわけ。
女の生理に合ったカイシャやシャカイ、働き方に変えていくためには、いい方法だと思った。残念ながら日本では成立しなかったけれどね。
それが今や、男性に適用されているらしいのだから、びっくりだ。
入社後十年。ここをクリアできたら、頭脳を主とした労働は、女の分野になるかもよ。

それはともかく、この話で、大昔に書いたエッセイを思い出したの。
帰宅してから心当たりの自著を調べてみたら、あったあった。70年代、『小説推理』という雑誌に連載していたエッセイのひとつで、単行本『偏見自在』(1977年、文藝春秋)に収録されている。連載は、「主婦生活の友」で読んだフザケた記事に噛みつく、という企画だった。もちろんそれは架空の雑誌で、実際には『主婦と生活』や『主婦の友』の性差別的な記事に、毎月、噛みついていたんだけどね。読み返してみて、男性読者が多い雑誌で、よくぞ二年も続いたものだ、と感心した。そういう内容ばかり。

件のエッセイ、単行本になったのは77年の春だけれど、雑誌に載ったのは75年ごろだろう。「長男は問題児になりやすい!」と題した14ページの大特集に噛みついている。
当時の私によると、その特集は、
〔「いや、お母さんはそんな風におっしゃるが、それは男の子というものを理解できないからですよ。長男には次男三男よりこんなに良いところがたくさんある。それに女の子と違って、こんなに素晴らしい。男の子は素敵です、長男は素敵です。長い目で見守ってあげましょう」
というような、長男激励とでもいった文章が続いている。あまりにその激励がすさまじいので、これはもしかすると、ただごとでは無く長男が駄目になってきているのかもしれない、と思ってしまう程だ。〕

そのなかの一有識者の次の発言を私は槍玉にあげている。あ、( )は現在の私の注だ。

〔発達のしかたも(男女では)、おおいに違いますよ。男の子はいわば“富士山型”です。さまざまなことに興味をいだいて、あれこれ手を出してみる。学校の勉強なんかそっちのけ。宿題なんかすっかり忘れて、泥いじりをしてみたり、時計を分解してみたり・・・・・
そのかわり経験のすそ野が広いから、イザ勉強し始めると伸びます。富士山のように高い山になる。
これに対し、女の子は“東京タワー型”と云えます。あんまり寄り道せずに、先生やお母さんの云うことをよく聞いてまっすぐに伸びる。だから、小学校時代は男の子より成績がいい。しかし土台が小さいから、東京タワーがどんなにがんばったって富士山の高さには追いつきません。(国立特殊教育総合研究所 情緒障害研究室長 昌子武司)〕

今見ると、これはマトモに相手にするのもはばかられる詭弁だね。
東京タワーは土台の大きさから高さが決まったわけじゃないっしょ。高さに応じて土台の大きさを決めたんでしょ。そして富士山は、すそ野が広いから高くなったわけじゃないっしょ。すそ野から積み上がってできた山なんて、聞いたことないもん。地殻が高く隆起した結果としてすそ野が広いだけでしょ。そもそも、どちらも育ってあの高さになったのではないっつうの、植物じゃないんだから。
この一事でもって、この説がきわめて非科学的であることは明らかだ。単に「男は富士山、女はせいぜいが東京タワー」というイメージが先にあっての思い込みに過ぎない。

だけど当時は、女の子の成績がいいのは小学生時代まで、というのが通説だったし、それを否定する証拠は乏しかった。近い将来、国連の女性差別撤廃条約に日本が加わって女の進学や社会参加が国是となることも、男女雇用機会均等法の効果がでてきて入社試験や昇進試験を男女平等に受けられる時代がくることも、その結果、中学高校大学そして入社試験で高い成績をあげる女がふつうになることも、サコちゃんみたいな女性考古学者が誕生し活躍することも、夢に近い予想でしかなかった。
だから、当時の私には、鼻で笑って片づける余裕はなかった。
〔断っておくが、私はこんなに長い肩書を持った専門家に、ましてやTVのスタジオで何度かお会いして大変穏やかな紳士だとお見受けした方に、楯つく気など毛頭ない。それはさぞかし、たくさんのデータや経験に基づいた疑うべくもないお説に違いないからだ。私は今ふと、大学の首席は女が多いと週刊誌に書いてあったのを思い出したが、そんなことで昌子さんのお説を云々する気ももちろんない。それは多分東京タワーのてっぺんがやっとスモッグの上に顔をだしたという程度のことなのだろう。〕
というイヤ味な低姿勢で、マトモに相手にし、必死で抗弁している。

つくづく世の進歩を感じたよ。
当時は、こんなに阿呆らしい説が堂々と活字になり、私も必死で抗弁しなければならない状況だったのだ。今やそんなことありえない。ほかの当時のエッセイにも、同様の感慨を呼び起こされる。
つまり、この三十余年で、性差についての通念は、まぎれもなく「進歩」した。めでたしめでたし、だ。

それにしても、どうして女の方が成績がいいんだろ。学力は自然の性差と関係ない。そう主張してきた私としては、単純に「女は男より勉強できるのだ」と喜んではいられない。
ここで例の説を再評価したくなる。少女の成績がいいのは、〔先生やお母さんの云うことをよく聞いてまっすぐに伸びる〕からだという。発言者はそれを性の資質としているが、環境による性向、としたら当たりかもしれない。男の子は悪ガキでも愛されるが、女の子は優等生でなければ愛されない。だから優等生になる。
すると入社試験の成績がいいのは、いくつになっても女は優等生であることを求められ、その求めに応じている結果、ということになる。
昔の女の優等生は、適当な時期に「主婦」となることだった。それが『主婦の友』も『主婦と生活』も消滅して久しい今、文字通りの優等生であり続けることに変わったのかもしれない。
だとしたらシンドイなあ。入社後十年もしたら、ほとほとくたびれて脱落するのも、無理ないなあ。

ご同輩、そろそろ優等生、やめまへんか?
私はとっくに、悪ガキへの道へ方向転換した・・・つもりなんやけどね(^^;)