第132回 ■韓国ドラマでおベンキョー■

佐古和枝(在日山陰人)

2010年のお正月、千夏さんは楽しげにお過ごしだったようですね。サコは、年末年始ずっと京都で引きこもり、数年分の大掃除に明け暮れて、クタクタでした。
だから年末年始は、掃除をしながら横目でテレビを見ていました。年末にはNHK教育テレビで日韓交流の特集番組をまとめて再放送していましたね。考古学の分野は、最新の研究成果を紹介していて、なかなか見応えがありました。それに刺激されて、お正月は録画して山ほどたまっていた韓国ドラマを、大掃除しながら見尽くしました。

いまハマっているのは、7世紀の高句麗の有名な将軍を主人公にした「ヨン・ゲソムン」(淵蓋蘇文、または泉蓋蘇文)と、同じ時期の新羅の初めての女王を主人公にした「善徳女王」です。同じ頃の話だから、両方に同じ人物が出てきたりします(もちろん役者は違いますが)。そしてまた、高句麗も新羅も百済も、戦乱が激化するなか、国王と有力家臣が対立して国家存亡の危機に直面する、とても緊迫した時期でした。
642年、ヨン・ゲソムは、国王と有力貴族ら100名余を殺害し、自分が実権を握ります。同じ年、百済でも即位してまもない義慈王が強硬に王権を強化しようとしてクーデターを起こし、反対派の王族や有力家臣達40名余を追放し、王と家臣との対立が深刻化します。これらの事件は、『日本書紀』にも書かれています。ちなみに義慈王の息子は、人質として倭国にいました。

一方、百済の攻撃に苦しむ新羅は、高句麗に救援を断られたので、643年唐に援軍を頼みます。しかし、援軍の条件として女王の退位を求められたために、女王派と反女王派が対立。647年に反女王派が反乱を起こしますが、女王を支える新羅のヒーロー金ユ信将軍が反対勢力を制圧しました。
その直後の645年に、倭国でも「大化のクーデター」が起きました。昔は「大化の改新」として、新政府が樹立してさまざまな政治刷新がおこなわれたと習いましたが、いまでは、これは大王家とはりあう蘇我の本家(蝦夷・入鹿の親子)を滅ぼすクーデターだったとみる説が有力です。中大兄(後の天智)たちは、おそらく高句麗や百済、新羅での王と有力家臣との深刻な対立を目の当たりにし、「こりゃ、うちもヤバイ」と思ったのでしょう。
結局、ヨン・ゲソムが国王を殺したことが唐に朝鮮半島出兵の口実を与えることになり、唐は新羅の救援要請を受けて出兵、百済は660年、高句麗は670年に唐・新羅連合軍に滅ぼされました。倭国の天智は663年に、仲良しだった百済の救うために出兵して大敗します。有名な白村江の戦いです。

そして、673年に即位した天智の弟・天武の時代に「日本」という国名や天皇制が成立したと考えられています。天武は、ものすごい勢いでさまざまな改革をおこない、次の律令体制の基盤をほとんど造ってしまいました。おそらく、上記のような国家存亡の危機を体験したから、国際社会でも負けない強い国を作らねばと痛感したのだと思います。やっとこさ「日本人」の誕生です。
百済・高句麗が滅亡したことで、大量の亡命渡来人が倭国にやってきます。『日本書紀』によれば、高級官僚から一般庶民まで、一度に700人とか2000人とか、ものすごい数です。こういう亡命渡来人たちが、天武・持統朝の国家体制作り、ひいては日本国の成立推進の一端を担ったのでした。

それからもうひとつ。白村江の戦いの後、本来なら唐・新羅軍を敵にまわした倭国は、次の標的として攻撃されてもおかしくなかった。だから、帰国した天智は、北部九州から瀬戸内、畿内まで沿岸地域に点々と朝鮮式山城を造らせたり、都を大津に移したりなど、ものすごい勢いで国土防衛事業を展開します。よほど怖かったんだろうなぁと思います。
それでも、奇跡的に助かったのは、朝鮮半島に居座ろうとする唐軍を、新羅と旧百済・旧高句麗の遺民たちが力をあわせて追い出してくれたからです。新羅は、倭国にも頻繁にSOSの使者を派遣してきましたが、唐にビビったのか、倭国は出兵しませんでした。あの時、朝鮮半島の人達が頑張ってくれていなければ、唐軍は新羅も倭国も滅ぼしていたことでしょう。そしたら、日本という国は生まれてなくて、私たちは中国人として中国語をしゃべっていたかもしれない(^_^;) 朝鮮半島の人達の奮戦に感謝せねばなりませんね。日本という国の誕生は、いろんな場面で朝鮮半島との関わりを抜きにはできないのでした。
前回続きを書こうと思っていたことよりも、年末年始の韓国ドラマから日本誕生の話になってしまいました。ちゃんちゃん。