第128回 ■期待に応えにゃならんのです■

佐古和枝(在日山陰人)

千夏さま 「地道な努力」への応援、ありがとうございました。そう言えば、千夏さんと初めて出会ったのは、吉野ケ里遺跡の保存が決まった直後のシンポジウムでしたね。あれから20年余り、経ったんですね。
吉野ケ里遺跡、すっかりさま変わりしているでしょ?(^_^;) 確かに今の吉野ケ里には、学界・市民の両方から「作りすぎだ」などの批判があります。でも、私は擁護派です。

批判がでないような遺跡公園を造るのは簡単です。でも、それではいつまでたっても日本の遺跡整備は成長しません。千夏さんがシンポで一緒だったという高島忠平さんや七田忠昭さんたちは、批判がでるのも承知のうえで、吉野ケ里遺跡のもつ可能性を最大限に評価し、私たちに見せてくれているのです。「ボクらは、みなさんに夢を与える責任があるのです」と七田さん。
吉野ケ里は、初めて大きく報道されて以来、わずか3ケ月足らずの期間に見学者が100万人を超えました。前代未聞というほど全国から注目されたことで、破壊の危機から救われて保存されたのでした。しかも、遺跡が国営公園になったのは、吉野ケ里が初めてです。だから、多くの期待に応えなきゃという使命感で、学問的にも遺跡整備でも、未踏の世界に挑戦しているのです。もちろん、復元のために、国内はもとより中国・韓国のデータも集めて、それなりの根拠をもってのこと。その勇気と意気込みに、エールを送りたい。国内唯一の国営公園の遺跡なのだから、他の遺跡ではできないような、夢と感動を与える遺跡公園をめざしてもらいたいです。

さて一方、大和はまた邪馬台国で興奮しています。11月11日の新聞で、邪馬台国大和説の候補になっている奈良県纒向遺跡で、超大型建物跡がみつかって、「卑弥呼の宮殿か」とか「邪馬台国の中枢か」などと大きく報道されました。この建物は、古墳時代を通じても最大規模。この巨大建物も含めて4つの建物が一直線に並ぶことや、それらが柵で囲まれていることから、特別な性格をもつ場所であること、纒向遺跡が並みはずれた遺跡であることは間違いない。

問題は、その超大型建物の時期が3世紀前半で、卑弥呼の時代と同じだから、卑弥呼の宮殿だという点です。118回で書いたのと同様、卑弥呼の時代に日本列島最大の建物であれば卑弥呼の宮殿だというのは、あまりに短絡的。新聞で七田さんがコメントしているように、『魏志』倭人伝の記載の通り、「宮室、楼閣、城柵」の3つがセットで存在することが、卑弥呼の宮殿の候補となる条件です。超巨大建物も計画的な建物配置も、それだけで卑弥呼の宮殿だという根拠にはなりません。
しかも、時期決定の根拠となる3世紀代の土器の年観は、研究者によって意見が分かれています。3世紀前半とする判断は、あくまで担当者達の見解。サコは、古墳時代の大和王権の宮になる可能性もあるのではないかと思っています。

新聞記事をよくよく読めば、卑弥呼の宮殿であるという決定的な証拠はないということは、記者さんたちも承知していることがわかります。でも、世間的には、「卑弥呼の宮殿か」の大きな見出しで印象づけられてしまいますよね。しかも、「か」抜きで(^_^;) 
纒向遺跡の調査は、前の知事さんが「邪馬台国をみつけろ!」と鼓舞したことで始まった学術調査です。邪馬台国に期待する市民からの寄付金も、けっこう集まっているようです。ここでも担当者達には、「期待に応えなきゃ」っていう思いがあるでしょうね。コテコテの九州説支持から九州7対大和3くらいに傾いているサコとしては、纒向遺跡にも頑張ってもらいたいです。でないと、吉野ケ里に張りあえなくて面白くない(^_^;) でも、くれぐれも学問からはずれて大和礼賛が暴走しないよう、市民の皆さんもマスコミさんも、よろしくお願いしますね。


纒向遺跡の発掘現場(今年3月)
超大型建物は、この調査区より線路側でみつかった。
(桜井市教育委員会「纒向考古学通信」vol.1 より)