第124回 ■大海に漕ぎ出す縄文人■

佐古和枝(在日山陰人)

シロワニ、怖っ(>_<) ダンゴウオ、可愛すぎ〜〜(*^。^*) カンパチ、イルカの写真は、水中カメラマンとしての千夏さんの腕前に感服。そして、コブダイ!! 古代人の絵としては見たことがないけれど、ごつごつした顔から、五島列島のお寿司屋さんで食べたハコフグを思い出しました。
五島列島といえば、お刺身をワサビではなく、すりおろした青トウガラシで食べるんですよね。それが、なかなか美味でした。そんな話をあちこちでしていたら、八丈島でもそうして食べると知人が教えてくれました。千夏さんの愛する小笠原諸島でもそうですか?
五島列島と八丈島はとても離れているけれど、海の民の行動範囲は私たちのような陸の民には想像がつかないほど広大だから、偶然の一致ではなく、海の民が伝えた食習慣なのではないのかと思います。

八丈島は、東京の南方約287km。そんな沖合の島にも、縄文人が残した遺跡があります。八丈島の湯浜遺跡は、6500年ほど前の竪穴住居2軒がみつかり、土器や磨製石器や伊豆諸島の神津島産の黒曜石で作った石器が出土しています。神津島は、本州から約50kmの沖合にある島ですが、関東地方の縄文遺跡では神津島の黒曜石で作った石器がよく出土しています。丸木舟で大海に漕ぎ出し、黒曜石を運んだ縄文人たちの、原材料へのこだわりがうかがえます。
八丈島の倉輪遺跡は、約5000年ほど前の遺跡で、男女2体の埋葬人骨、大量の土器や石器、石製装身具などの他、八丈島にはいなかったはずのイノシシやイヌの骨が出土しています。女性が一緒で、イノシシやイヌまで連れていたということは、一時的な交易のためではなく、移住地を求めての舟旅だったのでしょうか。

倉輪遺跡では、ケツ状耳飾りや棒状ペンダントという北陸地方に多く、大陸とも共通する装身具が出土しています。ってことは、それらの装身具は、日本海側から列島を横断し、はるばる八丈島まで運ばれた?倉輪ムラの人びとは、そうとう活発な行動派グループだったようです。
その後も八丈島にやってきた人々が残した遺跡があります。八重根遺跡は弥生時代後期から古墳時代、古墳時代後期から奈良・平安時代、中・近世と人が暮らした痕跡が刻まれた遺跡です。出土した土器の特徴から、弥生後期にやってきたのは伊豆半島の弥生人たちだとわかります。たくさんの炉を作り、魚の加工をしていたようです。古墳後期にやってきたのは、伊豆半島や神奈川県海岸部の人たちで、大量の煮沸用の土器や100基近くの炉がみつかっていて、カツオの加工工場だったと推定されています。
八重根遺跡では、奈良・平安時代にも、やはりカツオの加工をしていました。奈良の平城京では、伊豆諸島から生鰹節が貢納された記録があるので、都へ納める鰹節をせっせと作っていたのかもしれません。さらに平安時代の火の潟遺跡は、近畿地方の伊勢湾周辺から移住してきた人びとが大規模な製塩をおこなっていたことが明らかになりました。これも国家への貢納と関わりがありそうです。都人の贅沢な食事を支える苦労も、並大抵ではありませんね。

千夏さんの愛する小笠原諸島の北硫黄島でも発掘調査がおこなわれていますが、さすがに八丈島とは様相がガラリと違っています。石野遺跡は、石を集めて作った祭壇や積み石遺構、線刻壁画のある大きな石などがあり、打製石器、土器、貝製品、イノシシの骨などが出土しました。このうち土器や貝製品はマリアナ諸島との共通性が強いとされていますが、伊豆諸島や沖縄、さらにフィリピンや他の太平洋諸島との関連も指摘されています。時期はよくわからないのですが、シャコガイの炭素年代測定では2000年前という分析値がでており、打製石器はその頃まで遡る可能性あり。磨製の丸ノミ形石斧はマリアナ諸島の9〜15世紀のものと共通するそうです。いずれも漂着民だろうとのこと。どこからやってきた人たちだったのでしょうね。
海は離れた土地を繋いてくれる「動く歩道」のようなもの、とおっしゃったのは中世史の網野善彦先生。それにしても、陸にあがったカッパ状態の一般現代人サコは、丸木舟で大海に漕ぎ出した縄文人たちをはじめ、海の民の勇気には敬服するばかりです。そして、シロワニに出会っても、ビビらずまた海に潜る千夏さんの勇気にも(^_^;)