第112回 ■百済と倭の親密関係■

佐古和枝(在日山陰人)

だは〜っ!ややこしいから、ひょいっと通り過ぎようとしたけど、やはり見逃してもらえませんでしたね(~_~;) 千夏さんの質問に答えるためには、この頃の国際情勢を説明せねばなりません。ややこしいけど、ちょっとつきあってください。

百済と大和王権の交友関係は、4世紀の終わり頃から始まります。奈良県石上神宮蔵の有名な七支刀の銘文によると、この刀は369年に百済王が倭王のために作り贈ったもの。これは、大和王権と百済の正式外交が成立した記念品と考えられます。
高句麗の広開土王(好太王)の碑文によると、391年に倭が出兵しており、400年に新羅の城に満ちていた倭兵を敗退させ、任那加羅まで攻めいって撃破したと書いています。大和王権は、長年の朋友である加耶への援軍を派遣したのでしょう。この記事を疑う人もいますが、4世紀後半から5世紀前半にかけて、加耶の王族級の古墳群から倭系の武器・武具類や土器・石製品などがまとまって出土しており、倭軍派兵の際のお土産ではないかとみられています。神功皇后の「朝鮮出兵」伝承も、火のないところの煙ではなかったみたいです。広開土王の碑文では「倭賊」「倭寇」など、なにやらひどく倭兵を敵対視しているので、わが軍も奮戦して高句麗を手こずらせたのでしょう。

以後も、百済・新羅・加耶は、南に勢力を伸ばそうとする高句麗の脅威にさらされます。新羅は高句麗にすり寄りながら切り抜けようとしますが、百済は抵抗を続けます。高句麗に対抗するために、百済は倭と繋がろうとし、その記念に七支刀を贈った。おそらく倭と長いつきあいの加耶がその仲介をしたと思われます。その後、百済も新羅も倭と結びつきを強めようと、貢物や人質を送ってきています。
461年、百済の蓋鹵王は、弟の昆支王を倭王のもとに人質として派遣しようとします。昆支王は、倭に行く条件として、兄の妃を欲しいと願います。兄さんの蓋鹵王は、こともあろうに妊娠している妃を弟に与え、「生まれた子は帰国させろ」と命じました。この妃は、大和に行く途中、筑紫のカカラ島で出産したので「嶋君」と名付けられ、百済に送り返されました。ちなみに、この子が502年に即位する武寧王です。

さて475年、百済は高句麗に攻められて蓋鹵王が戦死し、後を継いだ文周王は都を南の熊津(公州)に移します。しかし家臣に暗殺され、政局は混乱します。
そこで雄略は、倭にいた昆支王の第2子の末多王に筑紫の兵500人をつけて帰国させ、百済王に即位させた。・・・って『日本書紀』は書いています。これが東城王。
『日本書紀』はエラそうに誇張して書いているところもありますが、百済と倭の間に密接な関係があり、北部九州勢力がその仲介をしたことが、前回書いた前方後円墳や横穴式石室の特徴だけでなく、文献資料でも確認できるのです。

百済は熊津遷都以後、朝鮮半島西南部の栄山江流域にも勢力を伸ばしてきます。そこに前方後円墳が出現し、筑紫や肥後とよく似た横穴式石室が造られているのです。5世紀の後半から6世紀の初頭、肥後の石棺が畿内に運ばれる時期です。そんなこんなで、栄山江流域の前方後円墳の出現は、筑紫や肥後が独自に百済と関係をもったというより、百済と大和王権の深い関係の下でおこなわれた国家的な動きであったと考えられる、ということです。栄山江流域に、数は少ないけど関東や紀伊の石室によく似たものがあることも、そう考えると理解しやすいです。

ついでにいうと、507年に即位した継体大王の時代、任那4県を百済に“割譲”(?)などいろいろあって、百済との間で頻繁に使者が往来します。527〜28年、紫国磐井は「新羅から賄賂をもらって、近江臣毛野が率いるわが軍の出兵を妨害したケシカランやつ」ということで大和軍に攻め滅ぼされたと『日本書紀』には書いていますが、百済と大和王権の直接交渉が深まるなかで、それまでパイプ役として活躍していた筑紫・肥後など九州勢力と大和王権との間に軋轢が生じたのではないかと思います。

ややこしかったですか?すみません。ともあれ、倭と百済は兄弟みたいに結びつきの深い国同士だった。倭が軍事力を提供する見返りに、百済から倭へさまざまな技術者や学者が派遣され、倭の技術や文化が熟成されました。仏教が伝えられたのも、このgive&takeの一環です。『日本書紀』、まして『古事記』に書かれていない、海を渡った在韓倭人たちの足跡が、遺跡に刻まれているのでした。