第111回 ■は〜い質問で〜す■

中山千夏(在日伊豆半島人)

ううううむ、おもしろい。
特に竺紫君石井(古事記ではこう書くのね、日本書紀だと筑紫君磐井だけど)と継体大王まで関係あるらしい、となると興味はつきない!

この戦い、風土記に記されている石井の立派な政庁あと(でしたっけ?)が、今も残っていたりして、本当にあったこととして有名。(このへん、ぜんぜん知らない読者向けに書いてるので、そのあたり、ひとつ、よろしくっ(^_^;)。教科書にも出てくるんでしょ。日本書紀にはかなり詳しい戦闘記録があるし。

ところが我が古事記だと、情報はこれだけ。
「この時代に、竺紫君石井、天皇の命令に従わず、とても失礼だった。そこで、物部荒甲の大連と大伴の金村連の二人を派遣して、石井を殺した」
そもそものちに継体大王と呼ばれる「ヲホド(袁本杼)命」の記は、これ以外に記事がない。もっとも、ヲホドの前後10代は、もっと記事がない。
記事がたくさんあるところも、日本書紀と違って物語的で、歴史書としてはまったく詳しくない。
古事記の成立712年、日本書紀が720年。ほぼ同時に作ったものが、なぜにこう違うのか?
それを考えるのがまた楽しい(^o^)

それはともかく、だから、古事記オタクは歴史の教科書なんかでも、戸惑うことが多いのよね。なにしろ古事記には書いてないことが多いから。なんでそんなことわかるんだろうって。

そこで、は〜い、サコ先生、質問で〜す。
「ちょうどこの頃、筑紫や肥後の勢力は、大和王権と百済を仲介する役割をもって、朝鮮半島東南部にさかんに出かけていきます。」とのことですが、なんでそんなことわかるんですか? 日本書紀なのかな、やっぱり?
なにしろ古事記には外交記事が少ないでしょ。それに極端に言えば、古事記では「5世紀前半」がどの天皇時代に当たるのか、もわからないでしょ(T-T)。

自分で調べなさいっ、と言わないで、ひとつそこんとこ、よろしくm(._.)m