第110回 ■舟で運ばれた石棺■

佐古和枝(在日山陰人)

伊豆の石丁場は有名ですね。大坂城の石垣も、関西だけでなく四国や九州からも運ばれたといいます。
海路で巨石を運ぶのは、近世に始まったことではありません。5世紀に、なんと肥後国(熊本県)で作られた石棺が畿内まで運ばれてきているのです。現在確認されているのは、瀬戸内海沿岸から河内・摂津・大和・近江などで25例。なかには、全国で4番目規模を誇る吉備の巨大前方後円墳の造山古墳(前方部の石棺)、継体大王の真陵とされる高槻市今城塚古墳、推古女帝が最初に葬られた墓とされる奈良県埴山古墳など、王墓クラスの古墳も少なくありません。

運ばれた石棺は、5世紀前半にも菊池川流域のものがありますが、多いのは5世紀後半から6世紀初頭までは宇土半島のつけ根あたりで作られた石棺です。阿蘇石と呼ばれるこの石材は、阿蘇山が噴火して生じた阿蘇溶結凝灰岩。少しピンク色した石です。
石棺は、蓋と身をあわせて7トンほどあります。それを古代の舟で、いったいどうやって運んだのでしょうね。2005年の夏、それを実験してみようという楽しい試みがおこなわれました。中心になったのは、熊本県の有志の人たち。最初は「そんな無茶な・・」と言っていた考古学研究者や地元マスコミなども協力して、本当にやっちゃった。古代の舟を復元し、それを下関の水産大学校や長崎大学、神戸大学の学生さんたちが交代で漕いで、石棺の蓋を載せた台舟を引っ張る。実際には、動力船が台舟を曳航する方が多かったようですが、1006キロの海路を34日かけて無事大阪港に到着。そして、高槻市の今城塚古墳に運びこみ、450人の市民が「修羅」という古代の木ぞりで石棺を曳くという体験イベントがおこなわれました。なかなか感動的な実験航海だったようです。

それにしても、なんでわざわざ肥後から石棺を運ぶなんてことをしたのでしょう。5世紀前半の畿内の大型古墳は、播磨の竜山石を石棺の石材に使っています。それはどうやらそのあたりを押さえていた葛城氏との関係らしく、5世紀後葉に葛城氏が衰退したことによって、それに代わるものとして、なぜかわからないけど宇土の石棺がもちこまれるようになったようです。
畿内の有力者たちとっては、簡単には手に入らない石棺だということが価値を高めたのかもしれません。一方、肥後勢力にとって石棺の搬入は、大和王権の有力者たちとのコネを確保する重要な営業活動だったのかな(^_^;)
ちょうどこの頃、筑紫や肥後の勢力は、大和王権と百済を仲介する役割をもって、朝鮮半島西南部にさかんに出かけていきます。この時期に朝鮮半島東南部の栄山江流域に出現する前方後円墳には、筑紫・肥後系の石室が築かれる。向こうに住みついた在韓倭人の墓ではないかと思います。こういう時期だから、肥後勢力は、石棺を畿内まで運ぶという大きな負担を引き受けてでも、大和の有力者と繋がっておくことで、朝鮮半島での活動において、なにか大きなメリットを期待したのかもしれません。

6世紀の中頃以降は、肥後製の石棺は途絶え、大阪と奈良の境にある二上山のピンク石を石棺の石材に使うようになります。肥後の石棺が途絶えたのは、継体大王と筑紫君磐井が戦って、磐井が敗れたことと無関係ではないはず。
竜山石、阿蘇石、二上山のピンク石というように、政治情勢の変化とともに、石棺に使う石材が切り替わっていきます。現代人には思いもよらないところに、古代人のこだわりや思惑、政治情勢がうかがえるのでした。