第106回 ■来年は丑年ですね■

佐古和枝(在日山陰人)

いよいよ今年も終わりですね。「変」になってしまった今年より、来年は少しでもいい年になりますように、という願いをこめて、せっせと年賀状を書きました。
来年は丑年。考古学の仲間たちには、年賀状の干支の写真や絵に考古学の出土品を使う人がけっこういます。日本では、馬や鳥、猪なら埴輪や壁画など、素材はいろいろあるのですが、ありそうで案外ないのが牛です。『魏志』倭人伝では、倭には馬や牛がいないと書いていますが、牛は古墳時代中期(5世紀後半)にいたことが埴輪で確認できます。兵庫県朝来市船宮古墳(5世紀後半)で出土したのは、牛形埴輪は、鼻にはちゃんと鼻輪がついてました。馬は4世紀末頃からいたようですから、牛は少し遅れて伝わってきたのかもしれません。ただ、牛の埴輪は少なくて、全国でも10例ほど。馬の埴輪は数え切れないほど多いんですけどね。『万葉集』でも、馬は87首に歌われているのに、牛は3首。あまり馴染みがなかったんでしょうか。
馬は乗り物や軍事用、牛は運搬用に使われたと考えられています。奈良時代には、貴族達の嗜好品(薬?)に「蘇」とか「醍醐」などの乳製品がありますから、乳牛としての役目もあったようです。

牛の肉は食べたのかって? そうなんですよね。675年、天武天皇は「牛・馬・犬・猿・鶏の宍(しし)を食ってはならない。」という詔をだしました。ってことは、食べてたということですよね (^_^.) 五畜の肉食禁止は「涅槃経」にあって仏教の肉食禁止の影響とされますが、天武の禁止令は4月1日から9月30日までの期間限定、そして上記の獣以外を食べることは禁止ではないとわざわざ書いています。だから仏教の影響というより、農繁期の家畜利用と関わりがあるのではないかと考えられています。

807年に斎部広成が編纂した『古語拾遺』に、おもしろい記事があります。大地主神が営田(耕種始め)の日に牛肉を農民に食わせたので、田んぼの神様である大歳神が怒って田にイナゴを放ち、稲の苗が枯れてしまいました。そこで大地主神は白猪・白馬・白鶏を奉納し、それで大歳神は機嫌をなおしてイナゴの退治方法を教えてくれるんです。そのなかに「牛宍(肉)を溝口に置き、それに男茎形を添えよ」というのがあるんです。なんや、その組み合わせは?(^_^;) と思うけど、その通りにしたら、その年は豊作だったとのこと。それにしても、農民に牛肉を食わせるって、何??

はい、646年に、農作月に農民が「美物(ご馳走)と酒」を喫(く)らうことを禁止しています。平安時代にも、農民が「魚酒」を喫らうことの禁止令がでています。どうも、営田祭祀の時に、神様に「牛宍」をお供えするとともに、祭祀の宴で飲食をすることが、だんだん田んぼで働いてもらう農民たちに労働報酬としてご馳走をふるまうようになったと考えられています。それを政府は嫌がった。律令体制の祭祀とはあいいれない、より古い形の神事なんでしょうね。

ところで、千夏さんと一緒に出雲大社の本殿を見に行った時、本殿の中の様子を描いた絵画資料のなかに、人々にまじって黒白ブチの子牛がいたじゃないですか。なぜか大国主命と牛はご縁が深いものとされています。富山県や新潟県では、大国主命が牛に乗ってやってきたという神話が伝わっています。で、馬に乗った地元の神様よりも、牛に乗った大国主命の方が速かった、なんてウサギとカメみたいな話もあります。先に紹介した『古語拾遺』の話も、似たような話が大国主命のエピソードとして語り継がれていたりします。御大地主(オオナヌシ)神という名前がオオナムチ(大国主)に似ていますよね。だから、間違われて「大国主命&牛」が広まったのか、あるいは大地主神も本当はオオナムチのことなのか。いずれにしても、少なくとも平安時代以降、牛は貴族にとっては牛車、庶民にとっては荷物の運搬や農耕作業の仲間として、大切にされてきました。
ってなことで、年賀状書きから始まった「牛の話」は、ここらでオシマイ。今年の連載も、これでオシマイ。来年も、よろしくお願いします。では、みなさま、よいお正月を!