あんなこんなそんなおんな・・・・・昔昔のその昔 第82

■「夫婦」か、「父母」か■

佐古和枝(在日山陰人)

はい、待ってました!「血縁関係があっても、夫婦でなかったとはいえないのではないか」実は、私も最初にそう思いました。記紀その他の文献によれば、古代の日本では近親結婚が珍しくありません。イトコ同士、祖父・孫、叔父・姪どころか、父親が同じでも母親が違えば結婚できたのですから、世界的にみても珍しいほど、近親婚のタブーが緩やかだったんですね。
その点について、田中先生もそれなりに考えておられます。3世紀末に書かれた魏志倭人伝には、「大人(上級官僚)は4,5人、下戸(下級官僚?)でも2,3人の妻をもつ」とあります。もっとも、その妻たちが一人の夫しかもたなかった、とは書いてないから“一夫多妻制”かどうかはわからないんだけど(^_^;)
ともあれ多妻制が古墳時代にも継続していたとすると、複数の妻から一人選ばれて夫と合葬される妻は、おそらく次世代家長の母親であろう。記紀をみるかぎり、近親婚から生まれた息子が皇位後継者になった事例はない。だから、もし近親婚があっても、その子が次世代の家長に選ばれることはなかったのではないか、だから合葬された男女は近親婚ではなかろう、ということです。
このあたりは、あくまで推測の域を出ないので、「ほんまか?」と詰め寄られたら、「たぶん」としか答えられない話ですけどね。
かりに近親結婚があったとしても、少なくとも確認できた範囲では、5世紀中頃までの男女合葬に血縁関係をもたないカップルが一つもないということは、見過ごすことのできない実態といえるのではないでしょうか。

もう一つの質問。同じ棺に男女を合葬する事例は、北部九州に多いものです。本州西部と四国では、1つの古墳に男女を埋葬する場合でも、それぞれ別個の棺に納めています。北部九州と、本州西部・四国では、埋葬の習慣もビミョーに違っていたようです。
6世紀になって、ようやく「母親」とおぼしき非血縁の女性が合葬に加わるようになることについて、前に紹介した義江明子先生が興味深い指摘をしています。これは、夫婦の絆が強くなったからでも父系原理が強まったからでもなく、生き残る子供たちの立場で「父母」合葬したのであろうと。推古女帝が、多くの妃の一人にすぎなかった自分の母堅塩姫を、その死後何年も経っているのに、父である欽明大王の墓に強引に合葬させたというのも、皇位を継いだ自分の立場を考えてのことでしょう。
文献史学では、父系システムが確立するのは10世紀以降のことだという見方が増えてきているようです。律令体制を導入した男性たちは、一生懸命男性中心社会をめざしたのですが、理想と現実のギャップはなかなか簡単には埋まらなかったようです。

「王と女性たち」(絵:さかいひろこ)