あんなこんなそんなおんな・・・・・昔昔のその昔 第27

■恥じる、と、照れる■

中山千夏(在日伊豆半島人)

ほんとだ。ありましたねー、石棒が。
へえええ、性を称賛する偶像が、弥生になると消えるとはねー、初耳でした。

おおらか、ということで見ると、弥生よりずっと文明人である『古事記』も、かなりおおらかよね。特に神話が。
冒頭の、イザナ2神が国土を産む話などは、性教育をかねている。以下、超現代語訳。

男神「あんたの体はどうできた?」
女神「一カ所、穴があいておる」
男神「あたしは、一カ所、余ったとこがある。では、この余りで、その穴を塞いで、国土を生もうか。どう??」
女神「そりゃいいね」
そうして二人は、しかるべく結婚式を挙げて、ミトノマグハヒをして、国土を生みましたとさ。

ミトノマグハヒは「性交」ですね。これに較べると、8年後にできた『日本書紀』はお固い。この会話はきれいに削除してある。で、結婚式はていねいに『古事記』と同じに書いている。それが、あなた、「最初に女神から声をかけた、女が先に言うのはよくないので、やりなおして、男神から声をかけた」、という世にも儒教的、男性優先的なお話。
ただし、この本文にくっついている参考文献引用、いわゆる「一書」のなかには、こんなのがある。同じく超現代語訳。
「男女神の前に、ニワクヌブリ(セキレイ)が飛んできて、尻尾をふりふりした。これを見て二人は性交のやり方を知り、真似して国土を生んだとさ」
『古事記』は二つの類似神話を接続したんだと思います。そして神話の成立は、おおらかな「会話」が古く、儒教風味たっぷりの「結婚式」は新しい。「セキレイ」は新旧見定めるの、難しいね。でも、おおらかながら、いやに言い訳めいているというか、理屈っぽいので、「会話」と「結婚式」の間かも。

儒教は男性優先文化です。これが強まると、倭人文化から、性に対するおおらかさが消えてゆく。ということは、性を隠したがるのは男性文化なんですね。そして、その男性たちが儒教から解放され、恥を捨てた時、捨てた所に、吉原花魁新宿風俗エトセトラ、買春文化が花開く。売買春というものは、つまり、男性だけが一方的に、性禁忌的男性文化から解放された状況に過ぎないものであって、だから「売る自由」なんて言うのはナンセンスなんだよ。

でね、私が思うに。男性的性文化は、性を恥じる。じゃあ、女性的性文化はどうなのか。恥も外聞もない、というのは間違い。女性的性文化は、性を照れる、のだ。うわあ、我ながらいいこと言ったなー、うはははは。
恥じることは、ない。人間の自然なのだから。でも、照れるでしょ、ふつう。おたがい、あまりにもむき出しの、自分の自然を、見せあうんだもんね。うほっ。